sanuki story project

75消えた汗の結晶 香川県  蝉脱庵さん
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かれこれ三十年前にもなろうか。
安くて早くて煮干の出汁が効いた旨い小さなセルフのうどん屋があった。店主は気さくで働き者。酒と塩辛いものに目の無いお人で、時々薬らしきものを飲んでいたが「どっこも悪うない。痛風以外どこも悪うないでー」と笑い飛ばしていた。そんな親父と店を客は愛した。
 店の奥では細身で小柄な奥さんが、いつも甲斐甲斐しく働き笑みを見せていた。そんなある日この親父さんが滅多に漏らすことのない裏話を人気のない閉店後に私に語ってくれたのである。それはある年の暮れのことで、年越しのうどん玉作りで大わらわの一日であったそうだ。当時まだ元気であった父親は、店のこと、家事いっさいに我関せずの傍観の人であったという。そのお人が何を思ったか、その日に限って風呂を焚いてくれた。そのことはやはり内心嬉しく、ついつい麺棒にも力が入ったという。売上金は小銭とは別に、お札は販売台の下隅に新聞紙に包んでおいていた。
 夜も更けようやく客足も途絶えた。やれやれこれで今年も終わったな~とホッと一息つき例の新聞紙に目をやれば、そこに見当らない。ぐるっと見渡してもどこにも無い。あれ!と思い父親に聞いた。
「おやじ、ここに置いてた新聞紙知らんな」
「ああ、あれか。あれやったら屑やと思い風呂に燃やしたぜ」
「エッ!」一瞬声が詰り言葉が出ない。
「ええ風呂が沸いたぜ、早よう入りや」
全身の力が抜けた。
「なんちゅうことや…」悶々としながら疲れた体を風呂に沈めた。滅多に事をせん人が滅多な事をしてくれた。「余計な事を…」イヤーそうじゃない、俺らのことを思ってしてくれた事や
「言えん」言えば皆辛がって嘆くやろ。一家は笑ってこの年を越せんことになる。
「そりゃ〜俺は風呂に入って唸ったぜ、ウンウン唸った」
エイッ、銭はまた働いたら出来る。これは俺の胸に納めとこう。
そう決心するまで風呂から出られんかったという。
お父うの焚いてくれた銭風呂で汗と涙を絞り出したんだそうだ。
初冬の日は早や足元に射し込んできていた。親父さんはふと遠くに目をやり
「親父にすれば自分が焚いた風呂を、えろう息子が気に入って長風呂してると思ったんやろうな〜」と沁々述懐した。
笑いながら言って西空を見つめていたのは、ありし日の父の面影と己自身を見ていたのだろうか。その笑い声には、かすかな涙声が滲んでいた気がする。その声の波紋が、いつでも思い出せば私の胸をせつなく満たすのである。