sanuki story project

232僕はダシ 大阪府  イワシ男さん
その他
「作家になるなら、漁船に乗って鍛えてこい」
作家志望の僕は師匠に言われるがまま、船員を募集していた香川県の漁師さんに、9月の間お世話になることになった。
宿泊で世話になったのは魚の加工工場だ。僕たちが漁で獲ったイワシをここで乾かして煮干しにするらしい。確かに工場は海の匂いが充満していた
9月の末。大変だけどやり甲斐のある漁が終わり、香川に留まる最後の日になった。名残惜しさを感じた頃、師匠から電話がきた。
「良くしてもらったか」と聞かれ「はい」と答えると、師匠はこう続けた。
「工場からしばらく進んで、根来寺という寺がある。そこに妖怪・牛鬼の像があるから、観光と思って見てくるといい。君、怪獣とか好きだろう」
事情を話すと、親切な工場長は新品の電動自転車を貸してくれた。師匠の言う「しばらく進んだ所」は50km以上あったが、自転車は軽快に道を走った。300mはある五色台の大地も労せず進んだ。
寺の門前に着くと、横の森に牛鬼がいた。人食い妖怪らしいが、どこか可愛らしい。携帯で撮影していると「すいません」と声を掛けられた。振り向くと杖をついた遍路装束の女性と、旦那さんらしき男性がいた。写真を撮りたいようなので脇に避けた。
旦那さんは奥さんの横を心配そうに歩き、奥さんがよろめけば手を差し伸べた。仲の良い夫婦だなと僕は思った。
遅れて本堂に着くと、奥さんは本堂の少し脇で正座して、般若心経を唱えていた。そこに旦那さんの姿はなかった。見渡すと離れた場所で、一人ぼんやり森を見ていた。それを見て「宗教とかは嫌なのかな」と解釈した。
帰り道、五色台を下りきったところで自転車の電力が切れた。
50kmの道を、重い自転車を懸命に漕いだ。僕の電力も切れた頃、ようやく工場にたどり着いた。
師匠から着信があったので顛末を話した。「良い経験をしたな。価値がある」と言ってくれたが、あの時気になった旦那さんの態度の事を尋ねた。
「奥さんを愛しているからだ。だからこそ見られない。君にはまだ分からないかな」
予想外の答えに、思わず「はぁ」と気の抜けた返事になった。
地元に戻り、香川での経験を元にした作品を書いた。賞に送ると、驚いたことにその作品が入選した。
師匠に報告すると「美味いダシがあってこそのうどんだろう。例えるなら君は、美味しい作品のダシを香川へ取りに行ったんだ」
関心のあまり、僕は電話越しに頷いた。